書くこと(創ること)の意味

川上未映子氏の『夏物語』で次のようなシーンがある。

主人公の姉は自分の娘に、主人公が小説を書いているので、「すごいんやで」と伝える。作家志望の夏子は、「すごいわけないやん。書いているのはまだ、なんていうの、趣味やのに」と謙遜してしまう。そしてすぐにそう言ったことを後悔するのだ。

「たしかに自分の書いているものが小説といえるのかどうかも覚束ない。それは本当だった。でもそれと同時に自分は、やっぱり小説を書いているのだという気持ちもあった。それは強い気持ちだった。はたからみれば何の意味もないことかもしれない。いつまでやっても誰にも何の意味ももたらさない行為なのかもしれない。でも、わたしだけはわたしのやっていることに、その言葉を使うべきじゃなかったのではないだろうか。とりかえしのつかないことを口にしてしまったような気持ちになった」

夏子は十年以上も作家志望として小説を書き続けている。その独白はさらに続く。
「小説を書くのは楽しい。いや楽しいというのとは違う。そんな話じゃないと思う。これが自分の一生の仕事なんだと思っている。わたしにはこれしかないのだと強く思う気持ちがある。もし自分に物を書く才能というものがないのだとしても、誰にも求められることがないのだとしても、そう思うことをわたしはどうしてもやめることができないでいる」

今日、文学フリマというイベントを見てきた。文章系同人誌即売会で、さまざまな人が小説や詩歌、評論の本を作って売っている。私は小説の本を幾つか買い求め、家に帰ってさっそく読んだ。そして思った。なぜ求められてもいないのに、書く人がいるのだろうか、と。

私自身も作家志望として、日々の労働をなんとかしながら、小説を書いてきた。小説を書くことは誰からも命令されていないし、書くことを誰かに勧められてもいない。『夏物語』の夏子と同じかそれ以上の期間、私は注文のない作品を作りつづけている。常識的に考えれば、いや客観的に判断すれば、十年以上もほとんど誰にも読まれない小説を書き続けているのは、徒労以外の何ものでもない。無意味以外の言葉は当てはまらない。

『夏物語』の夏子は続ける。
「運と努力と才能が、ときとして見わけがつかないものであることもわかっている。それに結局のところ--この何でもないちっぽけな自分がただ生きて死んでいくだけの出来事にすぎないのだから、小説を書こうが書くまいが、認められようが認められまいが、本当のところは何も大したことではないのだということもわかっている。こんなに無数に本が存在する世界にたった一冊、たった一冊--自分の署名についた本を差しだすことがたとえできなくても、それは悲しむことでも悔しく思うことでもないのだと。それはわかっているつもりなのだ」

文学フリマで販売している小説には、残念ながら「プロ」のクオリティに達していないものも少なくない。中には自分の体験に基づいた切実な叫びのような作品もあって、出会えてよかったと思えるものもあるが、そういうインディーズとしての必然性すらない作品もいくつもある。また文学フリマに出店している人が、みなプロの物書きを目指しているとは限らない。文学フリマの特に小説ブースには、皆が気付いていても気付かないフリをしている、ある種の「徒労さ」が隠れているのは確かだ指摘することも可能だろう。(それは筒井康隆氏が『大いなる助走』で嘲笑したものでもある)

けれど、書かざるをえなかった、作らざるをえなかった、いくつもの物語が、書き手にとっての必然性を備えている限り、それが「社会」にとっての必然性を帯びていなかったしても、たとえ読み手が少し微妙な気持ちになったとしても、「本当のところは何も大したことではない」のだし、ゆえに徒労でも無意味でもないのだと信じたい。

自分もこれまで3回、個人で文学フリマに出店した。それなりに売れたと思う。ささいな数ではあるけれども、自分の書いた文章を読んでくれる人もいたことになる。文学フリマという場にとても大きなエネルギーが渦巻いているからこそ、少しひいて冷静になってしまうところがある。書かなければいけない人の必然性は理解できる。しかしその書いたものを読まなければいけない必然性はどこにあるのだろうか、と。

一般に文学フリマで小説は「売れない」とされている。読み手が読まなければいけない必然性を、出店者がつかむのが難しいからだろう。私も次回の文学フリマには出店したいと思ったが、どういうものを出せばいいのか、悩んでしまった。

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